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資料一覧 14842 件
資料名 種別 年代 画像 備考
東京日日・大阪毎日新聞(昭和14年□月□日) コラム(日日だより) 「謙譲の心」 新聞切り抜き 内容抜粋:【】「世界第二回の大戦争が、突発す可き乎、否乎は、今ま猝かに予言は出来ない。けれども危機は十分と云はんよりは、十二分に孕んでいる。来らざるを恃まず、待つあるを恃むは、現在に処する我等の覚悟である。」「何よりも我等日本国民は、先づ自から不敗の地に立たねばならぬ。」「国民総体の捨我奉公の第一要件は、相互謙譲の心を長養することである。」「尊皇は勇を生じ、愛国は勇を生じ、日本精神は勇を生じ、国家の命運に対する信仰は勇を生ず。皇軍の向う所、必らず敵を撃破せねば息まない。」「謙譲は総ての国民に必要である。」「国家の大事を破る者は、当局者より始まると云わねばならぬ。」「何よりも当局者の謙譲の心が第一である。」 3F倉 袋1
国民新聞(昭和2年1月□日) コラム 「歳暮と元旦(二) 逗子より熱海」 新聞切り抜き 1927 内容抜粋:【】「旭日相海の上より湧き出づ」 3F倉 蘇峰集8
国民新聞(昭和2年1月□日) コラム 「歳暮と元旦(三)熱海より伊東」 新聞切り抜き 1927 内容抜粋:【】「長汀曲浦の眺め、とても筆には尽くし難い。而して初島の眼前に横るあり。只だ此の一点景。為めに相模洋の風景をして、画龍点睛の看あらしむ。」 蘇峰集8
東京日日・大阪毎日新聞(昭和14年8月17日) コラム(日日だより) 「嶽麓雑言(第二)」 新聞切り抜き 1939 内容抜粋:【】「極めて露骨に云へば、我等は世界大戦を見越して、それに処するの道を、今より十二分に準備するの必要がある。而して世界大戦が来らざれば、それに越す仕合は無い」「東京の新聞は黒田桜谷侯と、横浜の原三渓(富太郎)翁との訃を伝ふ。黒田侯は曽て貴族院の副議長として、予は侯と多く相語らざるも、多く相見た。漢詩は其の好む所にして、又た長ずる所であった。大名華族としては、錚々の一人であった。」「数年前三渓翁は野村洋三君を介して、予に・・」 3F倉 「蘇峰文存紀行其他(G-48)にもあり・袋4」 「蘇峰文存紀行其他(G-48)にもあり・袋4」 袋1にもあり 袋5に新聞切り抜きとコピーあり
東京日日・大阪毎日新聞(昭和14年3月1日) コラム(日日だより) 「「天地自然」に就て」 新聞切り抜き 1939 内容抜粋:【書評】「土岐善麿」 3F倉 袋1
東京日日・大阪毎日新聞(昭和14年2月26日) コラム(日日だより) 「「歌集帝都の情熱」に就て」 新聞切り抜き 1939 内容抜粋:【書評】「医学博士岡山厳」 3F倉 袋1
東京日日・大阪毎日新聞(昭和13年12月2日) コラム(日日だより) 「「一商人として」を読む」 新聞切り抜き 1938 内容抜粋:【書評】「相馬愛蔵」「甘党の記者が、新宿の中村屋を知らぬ筈は無い。」「賢夫人黒光女史」「士魂商才」「信州男児の真骨頭」 3F倉 袋1 袋5に新聞切り抜きとコピーあり
東京日日・大阪毎日新聞(昭和14年5月30日) コラム(日日だより) 「「回教徒」に就て」 新聞切り抜き 1939 内容抜粋:【書評】「笠間杲雄」「東亜の新秩序の建設を以て、自から任ずる日本人が、回教に関する認識の、今尚ほ甚だ欠乏しつつあるは、如何にも遺憾である。」 3F倉 袋1
東京日日・大阪毎日新聞(昭和14年8月1日) コラム(日日だより) 「八方美人と自主的外交」 新聞切り抜き 1939 内容抜粋:【】「・・明治二十六年、六派連合運動の際、「対外硬」なる合言葉が流行した。それが妥当でないと認め、本文の記者が、諸同人と申合せ、「自主的外交」なる文句に代へたるより始まった。」 3F倉 袋1
東京日日・大阪毎日新聞(昭和14年4月11日) コラム(日日だより) 「「日本仏教史研究」に就て」 新聞切り抜き 1939 内容抜粋:【書評】「藤原猶雪」 3F倉 袋1
東京日日・大阪毎日新聞(昭和14年4月7日) コラム(日日だより) 「自歌自釈「高嶽」に就て」 新聞切り抜き 1939 内容抜粋:【書評】「川田順」「高岳」「川田順君より、予の長孫女に頒てとて、手許まで郵寄せられた一冊がこれである。」「如何に自由であり、放曠でありと云うても、著者は紳士である。されば如何なる場合でも、決して脱線することが無い。其の諧謔の歌にせよ、将た其歌の解釈にせよ、その通りである。楽んで淫せず、哀んで傷らず。作者は実に歌人の三昧を自から体得している。」「苟くも作者其人を得ば、短歌また必らずしも短ならず。」 3F倉 袋1
東京日日・大阪毎日新聞(昭和14年7月20日) コラム(日日だより) 「病余小録 四、旧書新読」 新聞切り抜き 1939 内容抜粋:【】「・・凡そ東西古今、世界の歴史の中に於て、史記に優るもの幾許ある乎。」 3F倉 袋1 袋5に新聞切り抜きとコピーあり
東京日日・大阪毎日新聞(昭和14年7月17日) コラム(日日だより) 「病余小録 一、病院の避暑」 新聞切り抜き 1939 内容抜粋:【】「七月は予に取りては、大切なる書入れ月だ。」「嶽麓の生活は、心身両ながら超妙である。修史の事業も七、八、九の三個月間に、恐らくは半個年以上の課程を了ることが出来る。」「新聞では嶽麓仲間の松井大将も、既に到着したと報じている。九十一翁陶庵公爵も、御殿場に赴いたと云ふ。例年最初に往き、最後に還るレコード保持者の予のみ、独り病室・・」 3F倉 袋1 袋5に新聞切り抜きとコピーあり
東京日日・大阪毎日新聞(昭和14年7月21日) コラム(日日だより) 「病余小録 五、非難せらるる所に特長がある」 新聞切り抜き 1939 内容抜粋:【】「司馬遷」 3F倉 袋1 袋5に新聞切り抜きとコピーあり
東京日日・大阪毎日新聞(昭和14年6月27日) コラム(日日だより) 「平市より助川、日立」 新聞切り抜き 1939 内容抜粋:【】「・・大越中佐の銅像を礼拝した。」「助川常盤館に投じ、旧助川城主の裔山野辺義智君等と共に、助川城址を観光、・・」 3F倉 「蘇峰文存紀行其他(G-48)にもあり・袋4」 袋1
東京日日・大阪毎日新聞(昭和14年6月15日) コラム(日日だより) 「「ユダヤ問題と日本」」 新聞切り抜き 1939 内容抜粋:【書評】「凡そ世界に厄介なるは、猶太人に若くは無し。」「本書の著者宇都宮君」 3F倉 袋1
東京日日・大阪毎日新聞(昭和16年7月2日) コラム(日日だより) 「我等の国策宣明」 新聞切り抜き 1941 内容抜粋:【】「一月一日の夕、近衛首相が愛国心を強調」「驚くは近衛首相が斯心を以て自ら処り、同時にその同僚及び属僚に向って、よく提撕警策せられんことを望むのみだ。」「第一、東亜共栄圏の扶植には、英米旧秩序の巣窟たる勢力を東亜より一掃せねばならぬ。第二、東亜共栄圏と云えば、その最小限度に於て蘭印を包容す可きは、当然の事である。蘭印を欠いたる東亜共栄圏は、共栄圏という事は出来ない。第三、支那問題は、皇国の国際政策の上より考察して之を処理せねばならぬ。言ひ換ふれば、英米の勢力を駆逐し、手を東亜共栄圏の完成に伸ぶるに於ては、支那事変は、恰も春氷の太陽の光に逢ふが如く、自然に消解し、自然に解決す可しだ。」「国民は既に覚悟をしている。此上の覚悟は只だ当局者の覚悟だ。」 3F倉 袋1
東京日日・大阪毎日新聞(昭和12年4月7日) コラム(日日だより) 「故園訪病記(1)」 新聞切り抜き 1937 内容抜粋:【】「熊本なる老姉の病を報じ来る」「家は本来我が大江草舎にして、大江義塾は只だ址のみを留めたるも、住宅は殆んど従来の侭。老姉の病室は、先考淇水先生の書斎である。」「安達漢城翁の勧請にかかる三賢堂を訪うた。「兼坂止水翁の百梅園、及びその家塾蔵春堂」 3F倉 「蘇峰文存紀行其他(G-48)にあり・袋4」 
東京日日・大阪毎日新聞(昭和12年4月8日) コラム(日日だより) 「故園訪病記(2)」 新聞切り抜き 1937 内容抜粋:【】「友人弓削梅軒君」「静岡民友新聞社新築記念祝賀会」「鉄舟寺」 3F倉 「蘇峰文存紀行其他(G-48)にあり・袋4」 
東京日日・大阪毎日新聞(昭和13年4月28日) コラム(日日だより) 「静岡、清水、嶽麓」 新聞切り抜き 1938 内容抜粋:【】「杉原山の詩碑を訪うた。」「蘇峰会は又た例によりて鉄舟寺本堂に開かれた。」「蒲原にて田中青山老先生を訪ふ。」 田中光顕 3F倉 「蘇峰文存紀行其他(G-48)にあり・袋4」 
東京日日・大阪毎日新聞(昭和13年5月28日) コラム(日日だより) 「隠岐の第二日」 新聞切り抜き 1938 内容抜粋:【】「西郷港の高梨旅館に一夜を過し・・」「昭和十三年五月二十四日山口市付近湯田山水園にて」 3F倉 「蘇峰文存紀行其他(G-48)にあり・袋4」 
東京日日・大阪毎日新聞(昭和14年6月4日) コラム(日日だより) 「伊予小遊記(三)大山祇神社参詣(2)」 新聞切り抜き 1939 内容抜粋:【】「日本水軍の産卵処でもあり、且つ発育処でもあった。」「所謂「海賊大将軍」の威名は、徳川氏治世に至りて、其跡を絶ちたるも。」「海国男児の真面目」 3F倉 「蘇峰文存紀行其他(G-48)にもあり・袋4」 蘇峰集37 
東京日日・大阪毎日新聞(昭和14年9月30日) コラム(日日だより) 「芙蓉峰下の中秋」 新聞切り抜き 1939 内容抜粋:【】「九月は予に取りては、公私様々の思出多き月である。・・明治三十八年の中秋は、焼打事件の後、国民新聞社楼上にて、栗原、阿部、草野諸友と共に迎へた。」「大正六年には、満州旅行中、・・」「大正十二年関東大震災後の中秋は、大森山王の亀子山にて迎へた。」 3F倉 「蘇峰文存紀行其他(G-48)にあり・袋4」 袋5に新聞切り抜きとコピーあり
東京日日・大阪毎日新聞(昭和15年8月11日) コラム(日日だより) 「粗枝大葉(朴樹に就て)」 新聞切り抜き 1940 内容抜粋:【】「而して木の中に於ても、朴は最愛の唯一ではないが、その一である。即ち其の疎枝大葉の徴象として、これを愛するのだ。」 3F倉 「蘇峰文存紀行其他(G-48)にあり・袋4」 袋5に新聞切り抜きとコピーあり
東京日日・大阪毎日新聞(昭和16年4月5日) コラム(日日だより) 「老史家の譫言」 新聞切り抜き 1941 内容抜粋:【】「世の中には行当りばったり、当意即妙にてやってのける人もあり、又た予じめ計画を立て、予算を定め、それを遂行する者もある。予は何れかと云へば、後者に属する者にて、・・」「予の修史行程は、今や明治六年征韓論の大題目に集中している。」 3F倉 「蘇峰文存紀行其他(G-48)にあり・袋4」 袋5に新聞切り抜きとコピーあり
東京日日・大阪毎日新聞(昭和16年4月□日) コラム(日日だより) 「さくら(上)」 新聞切り抜き 1941 内容抜粋:【】「予が少壮時代花見と云へば、上野第一、向島第二、飛鳥山第三、それから小金井・・」「予は梅と云へば、奥多摩に限り、桜と云へば、小金井に限ると思ふ程、屡々両所には遊んだが。」「嵐山」「津軽弘前城」「猪苗代湖畔翁島の高松宮御別邸の桜」 3F倉 「蘇峰文存紀行其他(G-48)にあり・袋4」、袋5にも新聞切り抜きとそのコピーあり 
東京日日・大阪毎日新聞(昭和16年4月□日) コラム(日日だより) 「さくら(下)」 新聞切り抜き 1941 内容抜粋:【】「九州には山桜が多い。予が十八九の頃でもあったらう。熊本県の葦北郡より、球磨山中を独行したることがある。・・」「富士山麓の富士桜の群落」「雲か、霞か、桜か、雪か、全く見分けのつかぬほどの光景にて、流石にここが吉野の見所であると考へた。」「予の宅には故淇水翁が手栽せられたる大島桜が無遠慮に長大となっている。」 3F倉 「蘇峰文存紀行其他(G-48)にあり・袋4」、袋5にも新聞切り抜きとそのコピーあり 
中外日報(昭和16年5月20日) コラム 「閑見春風仏柳条」 新聞切り抜き 1941 内容抜粋:【】「涙骨先生、久しく御無沙汰致しました。先生には過般・・」 3F倉 「蘇峰文存紀行其他(G-48)にあり・袋4」 
東京日日・大阪毎日新聞(昭和16年8月31日) コラム(日日だより) 「嶽麓雑詠」 新聞切り抜き 1941 内容抜粋:【】「福沢翁は、鯱矛立ちは芸の中ではないと云ふた。予が詩も恐らくは、文芸的作品の札を貼るには余りに素人臭きものがあらう。予は一生を独学で過して来たもので、詩も亦た其の通りだ。」 3F倉 「蘇峰文存紀行其他(G-48)にあり・袋4」 袋5に新聞切り抜きとコピーあり 
東京日日・大阪毎日新聞(昭和16年11月17日) コラム(日日だより) 「阪谷子爵の追憶」 新聞切り抜き 1941 内容抜粋:【弔辞】「我等の同甲、即ち文久三年組には、・・」「特に朗廬先生が校訂したる「東莱博議」は、予が青年時代尤も愛読したる一にして、予が新聞記者たる素地は、之によりて養はれたるものが、鮮くないと思ふ。」「・・但だ最初の政党内閣、即ち板隈内閣の時に、添田寿一氏が選ばれて次官となり、子爵は其下に就く事になったのは、子爵にとっても、決して満足では無かったらうと思ふが、・・」「大民掲載」 3F倉 「蘇峰文存紀行其他(G-48)にもあり・袋4」