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資料一覧 14871 件
資料名 種別 年代 画像 備考
【自筆】詩稿「新年十首」(昭和24年1月1日) 草稿・原稿 1949 毛筆書き 15.5x128cm 「一生を戦ひぬきし身にしあれは荊棘の道も物の数かは」 蘇峰草稿4-451
【口述筆記】原稿「吾れ、吾れを語る」(昭和24年5月18日) 草稿・原稿 1949 毛筆書き 19.5x25.5cmx21枚 「蘇翁曰く「我れ死する時は本文を朗読して貰ひたし」と」「先ず結論から言へば、予の八十有余年の生涯は、全く失敗であった。終戦の即下、予は 一生を棒にふりたるたわけ者 五尺のからだ置き所なし との俗謡を作った。」「新聞人たることが、国家に奉仕する予に取ては、最善の途であるということを信じて、それに身も魂も打ち込んだものである。新聞人としての予は、或時には帝王の師となり、或時には民衆の指導者となり、常に皇国の為に、現在は勿論、百年の大計を樹立せんことを努めた。」「維新の先輩等が行りかけたる仕事を完成する事が、即ち我等に遺されたる責任であるという事を自覚し、其の為に国論を指導せんことを試みたものである。」「可愛さ余って憎さが百倍、憎さが余って可愛さ千倍と云ふが、予の日本に対する心境である。せめて五百年の後には、日本よ、本来の面目に立還れ。」「蘇翁自述、中島筆記」 蘇峰草稿4-453
【口述筆記】原稿「病中所感」(昭和24年4月26日) 草稿・原稿 1949 万年筆書き 15x16.5cmx8枚(蘇峰学人用箋使用) 「最近即ち昭和二十年より二十四年の今日に至る迄殆と無収入の生活を為し即ち今日の所謂筍生活にて漸く凌ぎ来った。」 蘇峰草稿4-455
【口述筆記】原稿「伊豆山独語(一)」(昭和25年2月18日) 草稿・原稿 1950 毛筆書き 16x18.5cmx13枚(蘇峰学人用箋使用) 「日本が何故にヒットラー、ムッソリニの全体主義者と提携したかと云へば、他に提携すべき相手が無かった為である。その事情は、英米二国でさへも、スターリンと提携し、ひたすらスターリンに迎合する事を、努めた事を以ても、知ることができる。」 蘇峰草稿4-457
【口述筆記】原稿「伊豆山独語(二)」(昭和25年2月19日) 草稿・原稿 1950 毛筆書き 16x18.5cmx20枚(蘇峰学人用箋使用) 「日本の敗戦は、自業自得である。日本が自らその責任を負ふ外はない。而してその敗戦の原因を総括して言へば、人物欠乏の一点に在り。」「日露戦争以来大東亜戦争に至る間に、日本は全く小人島化したのである。」 蘇峰草稿4-458
【口述筆記】原稿「八十八誕辰自述」(昭和25年3月15日) 草稿・原稿 1950 万年筆書き 16x18.5cmx16枚(蘇峰学人用箋使用) 「私共は、マックアーサー元帥の対日方針に、飽くまで協力し、且つ協力する事が、現在の日本にとっては、最も賢明の道と思ひますが、併し、さればとて、今日の所謂社会の風潮には、頗る共鳴できない事が多くあります。・・日本には、日本的民主国を扶植する事が、最も大切と考へます。・・さればアメリカに於ても、休戦の当時或る強国の反対にも拘らず、日本の皇室を維持する事に、方針を定めたのは、日本には日本流の民主政治を行はしめんとの、底意あったものと、忖度すべきであります。」 蘇峰草稿4-459
【自筆】漢詩草稿「梅花豆嶺到」(昭和25年3月19日) 草稿・原稿 1950 毛筆書き 12x26cmx2枚 「蘇峰と静子夫人宛盈進書簡同封」 蘇峰草稿4-460
【口述筆記】原稿「蘇翁八十八年の生涯」(昭和25年4月9日) 草稿・原稿 1950 万年筆書き 16x18.5cmx34枚(蘇峰学人用箋使用) 「昭和25年4月9日米寿祝賀会に於て朗読」 蘇峰草稿4-461
【謄写】書簡控え「小沢凱夫先生」(昭和25年11月30日) 草稿・原稿 1950 毛筆書き 18x25cmx3枚 「蘇峰の主治医」「静峰生記」 蘇峰草稿4-462
【自筆】詩稿「八十八自述十首」(昭和25年) 草稿・原稿 1950 毛筆書き 20x28.5cmx12枚(蘇峰用箋使用) 「佐佐木信綱の朱筆による添削」「十二首より信綱が十首を選んだか?」 蘇峰草稿4-464
【自筆】講演草稿「八十九初度挨拶」(昭和26年) 草稿・原稿 1951 毛筆書き 18.5x167cm 「日本人の長所は・・一言にして云へは恢復力の敏速なることてある」 蘇峰草稿4-465
【口述筆記】原稿(複写)「大江草舎と徳富蘆花」(昭和26年2月10日) 草稿・原稿 1951 万年筆書き 17.5x25cmx257枚 「1~22章」「晩晴7-13号で60頁までが活字化」 蘇峰草稿4-466
【口述筆記】原稿「予が見たる蘇峰翁」(昭和24年1月29日) 草稿・原稿 1949 万年筆書き 17.5x20cmx88枚 「昭和二十四年三月十五日の誕辰賀会出席者に配る」「蘇翁の自画像なり 中島氏の名を仮りたるものなり」「翁は天性の伝道師である。曽て国民教育奨励会を作り、若くは青山会館を創立したるが如きも、余計な事に手を出したのではなくして、その伝道師たる本来の目的を達する、一の方法としたものであらう。翁の新聞若くは新聞雑誌、若くは著作さへも、翁に取ては伝道のための機関であったに外ならない。而して翁の伝道とは、仏教でもなければ、キリスト教でもなく・・我が日本を道義的日本となし、我が国家を道義的国家となし、皇室を中心とする倫理的国家を、東洋に樹立せんと欲するに在って、そのために一生を捧げ尽したが、それが現今の状態となって見れば、翁の志は全く事と相違したと云はねばならぬ。」 蘇峰草稿4-468
【口述筆記】講演草稿「日本的民主主義」(昭和26年1月14日) 草稿・原稿 1951 万年筆書き 25x34cmx14枚(二つ折り) 「私は民主化を厭ふものでないばかりでなく、寧ろその本尊といはなければ、少くとも先駆者の一人であります。即ち明治十七、八年から二十四、五年に亙って、平民主義を最も力強く日本に唱へましたものは、恐らくは私であったらうと信じます。然も平民主義なる言葉そのものも、実は私が唱へ出した文句であります。」「一月十四日沼津第五小学校関係の婦人を主とする八十三名の団体来邸に際しての挨拶」「藤谷みさを筆記」 蘇峰草稿4-472
【口述筆記】原稿「日本皇室と国民」(昭和27年) 草稿・原稿 1952 万年筆書き 17.5x23cmx4枚 「熊本行の為用意せしもの」「塩崎紹介文同封・私は満州事変支那事変以来殊に太平洋戦争から終戦後現在に至るまで時を先生秘書として相勤めましたもので特に太平洋戦争中より終戦後にかけては先生と同じ屋根の下に生活し云はば先生の起居動作一切を承知して居ります。・・」 蘇峰草稿4-474
【口述筆記】原稿「時局覚書一則」(昭和27年) 草稿・原稿 1952 万年筆書き 17.5x23cmx5枚 「熊本行の為用意せしもの」 蘇峰草稿4-474
【口述筆記】原稿「郷土愛」(昭和27年) 草稿・原稿 1952 万年筆書き 17.5x23cmx4枚 「熊本行の為用意せしもの」 蘇峰草稿4-474
【自筆】講演草稿「薩人と長人とは其の性格か一致せす」 草稿・原稿 毛筆書き 18.5x137cm 蘇峰草稿4-475
【自筆】揮毫草稿「山中人自正」(昭和26年8月4日) 草稿・原稿 1951 毛筆書き 9.5x27cm、21x20cm 「大切保存」 蘇峰草稿4-479
【口述筆記】詩稿「為小川女史」(昭和26年9月24日) 草稿・原稿 1951 毛筆書き 18.5x96cm 「屏風一双御揮毫」 蘇峰草稿4-481
【自筆】詩稿「銀杏十二首」(昭和26年11月18日) 草稿・原稿 1951 毛筆書き 20x28cmx12枚(蘇峰用箋使用) 「伊豆山の手裁の銀杏色つきぬ我国民史何時か成るへき」 蘇峰草稿4-482
【自筆】原稿「焼印2種」(昭和27年1月18日) 草稿・原稿 1952 万年筆・赤鉛筆書き 18x23cmx2枚 「蘇叟九十歳記念以逗子老龍庵松材造之」「蘇峰先生筆静峰生謹刻」見本印譜入り 蘇峰草稿4-484
【自筆】詩稿「老龍庵」(昭和27年1月1日) 草稿・原稿 1952 毛筆書き 18.5x70cm 「淇水先生詩筆生涯他日御加筆草稿」 蘇峰草稿4-485
【自筆】詩稿「帰郷歌」(昭和27年2月25日) 草稿・原稿 1952 毛筆書き 20x28.5cmx13枚(蘇峰用箋使用) 「今年頽齢九十晩春を待て展墓の為め帰郷せんと欲す 仍て帰郷の歌を作る」「朱筆訂正あり」 蘇峰草稿4-486
【自筆】原稿「暗中模索」(昭和27年2月22日) 草稿・原稿 1952 毛筆書き 19.5x235cm 「在熊の諸賢、旧知の諸賢、新聞界、実業界など会いたい人名が書かれている」「帰郷に際しても熊本の産したる一老記者としての待遇を以て尤も光栄とするものなり」「托塩崎君」 蘇峰草稿4-487
【口述筆記】原稿「晋山頌辞」(昭和27年3月26日) 草稿・原稿 1952 毛筆書き 20x165cm 「青龍寺元寿和尚」「青龍寺は岳麓の禅林にして東海名藍の一なり」「蘇峰居士」 蘇峰草稿4-489
【口述筆記】原稿「管見一則」(昭和27年4月5日) 草稿・原稿 1952 毛筆書き 18.5x290cm 「明治十三年五月十三日同志社を去りて以来当時十八歳の青年の九十翁の現今に到る迄未た曽て一日も同志社を忘れたることなし」「若し今回の同志社訪問か同志社の為めに若干の新島精神を発揚し同志社本来の面目を発揮するを得は老生の望足矣」「予は新島先生報恩の一端として金壱百万円を寄附せんと欲す」「予は基督者として教会に列せす然も平生基督者に怍ちさる品性を長養せんことを日夕努めたることは新島先生も諒とせられたるところにして同志社に関する内外重要事件は殆んと予に相談せられたることは予かその知遇に感激したるところなり」「予は生きて新島の門弟たり死して新島の門弟たり未来永劫新島の門弟たることを人生としての最上の本望となし自らその幸運に満足するものなり」「同志社長老 現役各位」 蘇峰草稿4-490
【自筆】講演草稿「同志社と新島精神」(昭和27年4月9日) 草稿・原稿 1952 毛筆書き 18.5x335cm 「福沢翁は偉大なる国民教育家なり 而して其の教育の根本義は新島先生とは対蹠的なり即ち人生を独立自尊の範疇に入れ之を以て其の帰趨となすは福沢流なり その末流は遂に拝金家を高調するに至れり」「要するに福沢の教育は取らんか為めの教育にして新島の教育は与へんか為めの教育なり 維新以来福沢流は一世を風靡し日本は一大超躍的進歩をなせり然も日本か殆んと世界より除外視せられんとするの憂目を見たるも亦た之か為めなり」 蘇峰草稿4-491
【自筆】原稿「郷土愛」(昭和27年4月15日) 草稿・原稿 1952 毛筆書き 18.5x415cm 「近比は我邦ても国家なとと云ふことは流行せぬこととなれり 此れは国家主義の日本か世界の脅威たることを慮りて日本より愛国心を追放せんか為めに外人の指金による」「彼等は日本より一切の武装を取り上け丸裸にしたるはかりてなく其の護国の精神をも丸裸にせんとしたるものなり」 蘇峰草稿4-494
【自筆】原稿「日本の皇室と国民」(昭和27年4月16日) 草稿・原稿 1952 毛筆書き 18.5x405cm 「日本は殆んと総ての制度文物宗教学問を外国より伝来輸入せり 唯た皇室のみは我国固有の産物なり されは若し国宝と云ふへきものを求めは日本第一の国宝は皇室てある」「蘇叟九十」 蘇峰草稿4-495